文学を語り芸術に酔う青春時代、彼は石井柏亭の妹との恋に破れフランスに渡る。
そこで油絵、版画にうちこむ。
五年後に帰国した彼は北原白秋の妹と結婚。
その後、日本創作版画協会を設立。
「官展に版画部を設けよ、東京美術学校に版画科を開設せよ」と呼びかけ、版画の地位向上に尽くした。
やがて上田に帰った鼎は、こんどは、パリからの帰途に立ち寄ったロシアで見た子供たちの絵、農民の作った工芸品、そしてトルストイが人間に奉仕することの義務を感じて一八五七年にヤースナヤ・ポリヤーナではじめた農民学校の話に感銘し、自らも実践する。
つまり「子供にはもっと自由に個性をのばせる創造教育をせよ、農民にも文化を、そのためには経済的にも豊かになるよう農閑期を利用して手近なもので工芸品を作って売ろうではないか」という趣旨である。
そしてついには日本農民美術研究所を設立する。